医王山光蔵寺〜略縁起〜
光蔵寺は朝倉の高き峰にあることから「高蔵寺 たかくらのてら」または「金蔵寺 かなくらのてら」と号し、現在の寺の前を流れる古寺川上流の古寺山(小寺山)に存し、林内に点在する堂は七堂伽藍であったと過去記に記す。

事実、現在も光蔵寺の麓から古寺山に向かって「大門・御門(後門)・水上院・京上・前古寺・奥古寺・寺屋敷・寺床・京僧・喪入道」などの地名が残されていることから、天正十三年に四国征伐で焼討ちされる中世以前の高蔵寺が山城的な性格を持つ山岳寺院として、現在とだいぶ趣を異にしていたことが伺われる。

寺伝に記す縁起は、豊御食炊屋姫(推古十年 602年)の御世、旅の薬生僧俊覚日羅上人が伊予国の大領
小千益躬を施療し平癒したことへの報恩により、本尊薬師如来像(秀圓上人の光蔵寺什物目録では行基菩薩作と言いつたふとある)を当地水之上(みずのかみ)に安置し、領内に飢饉や旱魃・洪水のないよう領民の五穀豊穣・領内安泰を祈願、自らも延命地蔵王菩薩像を彫って小千氏の氏寺「高蔵寺」を建立したのが医王山光蔵寺の開基である。

また民俗学的に見ると、古寺川は国府の田畑を潤す頓田川の上流であり、さらにその奥の古寺山の山中にある磐座(いわくら)が古来より山ノ神としてお祀りされていたことから、古寺山自体を必要な水と豊かな土壌を与えてくれる山ノ神あるいは水ノ神とし、雨乞いおよび五穀豊穣を祈る神聖な霊地として崇めていたことが考えられる。また、水源の近くには古くから銅鉱石を産出する金山(かなやま)が存在し、その関係もあろうと思われる。

光蔵寺がその起源を朝倉水之上古寺山とすることは、古代の水源信仰と山岳信仰が結びついた結果、
のちに真言寺院として発展していった為であろう。

江戸期まで光蔵寺が水之上の氏神である飯成神社の別当寺を勤めていたことも決してそれと偶然ではない。

光 蔵 寺    年 代 表
年 代 主 な 出 来 事
602年
(推古十年)
小千益躬公、水之上(みずのかみ)古寺山に氏寺「高蔵寺(金蔵寺)」を創建する。
奈良期 伊予国分寺建立により華厳経学の道場となる。
712年
(和銅五年)
伊予国司河野散位小千(越智)玉澄が、山城国伏見稲荷大社より、伊予国越智郡朝倉郷水之上明神山にあった宇迦之御魂神の古社に、一郡一社のお社として稲荷明神が勧請されて稲荷(飯成)神社となり、その別当寺となる。(飯成神社沿革誌)
1245年
(寛元三年七月)
京都嵯峨御所大覚寺より僧侶が赴任する大覚寺直末寺となる。上村から中村に末寺十五ヵ寺と私院三坊を有す。
南北朝期 吉野より下向した大覚寺統の吉野朝良成親王の伊予逗留を援け「菊紋」を下賜されると伝う。南朝文中二年の肉筆の大般若経二百巻を蔵す。
1585年
(天正十三年)
豊臣秀吉の四国征伐に遭遇し、河野勢の砦となり兵火によって伽藍堂塔焼失する。その伽藍址は現在も地名として残る。伊予河野家の家伝記である「予陽盛衰記 第十六巻第五章 越智郡諸城没落の事」には、越智郡鈍川郷鷹ヶ森山城主・越智駿河守通能が弟に対して、嫡子・門真太郎を高蔵寺に隠れさせているから連れて逃げろ、との行がある。
1593年
(文禄二年)
智尊大徳、由緒旧跡を偲び武田真三郎(新三郎)と渡辺新左衛門を中心とする村人と旧大門のあった現地湯の口へ石垣と堂宇を再興。慶長年間に畑寺光林寺一派となる。
江戸期 主に朝倉上村庄屋武田家、上ノ村庄屋武田家・上村庄屋渡辺家、上村里正山本家、中村北庄屋渡辺家、玉川高野村庄屋武田家、松山藩御典医武田家(元朝倉上村庄屋)、町谷村藩御用達酒造商武田家、神官田窪家、芥川家、越智家、加藤家、宇佐美家、岡家、金光家、青野家、白石家などの菩提寺として今日に至る。文政6年に本堂建替。庄屋武田家聖観音菩薩像及び位牌群を預かる。
明治期 太政官令・神仏分離令により水之上稲荷神社(現飯成神社)と分離される。
分離により本地佛如意輪観音像・ダキニ天仏画および神社棟札は光蔵寺に祭祀。光林寺より分離し大覚寺直末寺・二等格小本寺となる。
大正〜昭和初期 大日本帝国の戦時政策により高野山を本山とし、その直末寺となる。
医王山光蔵寺
瑠璃院過去記
俊覚上人から慶長1600年代
までの当山の先師系図 
多くの地蔵尊が祀られる境内
享和年間の延命地蔵
ご参拝の案内花だより年中行事月行事略縁起・歴史寺宝物
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中世における光蔵寺の変遷
以上が光蔵寺創建までの寺伝であるが、中世以降の記録によると以下のとおりである。

奈良朝には、国分寺の影響を受け華厳経学の道場に、中世においては、寛元三年(1245年)七月に大覚寺統直轄の直末寺(京都大覚寺より僧が赴任)となり七堂の伽藍を備えた。南北朝時代には吉野より下向した南朝良成親王の伊予逗留を援け「菊紋」を下賜されたとされる。

これは当寺が南北朝の争乱期に保護を受けていた伊予の豪族
河野氏が南朝(吉野朝)についていたこと、および、嵯峨御所大覚寺の直末寺であった為であろう。また、この頃の南朝の年号である文中二年(1373年)の奥書を最古とする肉筆の大般若経200巻が保存されている。智尊記「覚書光蔵寺菊紋之事」これらのことから、古瓦のかけら・文政年間(1,818年)から建つ護摩堂の彫り物・鎧瓦・御袈裟には菊紋が寺紋として残されている。

また菊紋と共に「
下がり藤」の紋を使用しており、これは奈良・平城京の藤原摂関家の氏寺であった興福寺や薬師寺・元興寺などの南都寺院と関係があったことを示す、もしくは越智氏が平安時代に藤原姓を授かり、その荘園経営に当ったことを示すことの名残かも知れない。事実、光蔵寺には奈良・元興寺にあったと思われる「弘長二年(1262年) 元興寺極楽院」銘の鰐口、同じく奈良・春日大社に由来すると思われる「安貞元年(1227年)正月大吉日 奉納春日西之屋」銘の春日卓が遺されている。従来、春日大社の祭祀は興福寺の社僧によってなされており、明治の廃仏毀釈の折に興福寺の社僧のほぼ全員が、一晩にして神主や禰宜に早変わりした話は有名である。

さらには、広島県世羅郡の永壽寺に現存する大般若波羅蜜多経奥書(広島県史資料編古代中世4)には、「
朝倉郷住宅藤原実正 与州小千郡水神大明神之宮中之治 同住人舜賢」の発願により「備州三原の大智坊」にてこの経典が書写されたと記されていることから、平安〜鎌倉期に朝倉郷水ノ上の高蔵寺および稲荷神社において、藤原氏を名乗る一族(越智氏ではないか)が住人として存在していたことがわかり、寺紋との関連が窺える。また、現在の京都の伏見稲荷大社(水之上飯成神社の本社)が明治以前は「藤森稲荷」と通称されていたことなども関係があるかもしれない。


また光蔵寺は、明治に神仏分離令は発布されるまで中古より、水ノ上の氏神である「飯成神社」(弘仁15年=825年に国司小千宿祢為澄(おちのすくねためすみ)が嵯峨天皇の詔勅を奉じて山城国稲荷山から勧請した一社であり朝倉上村の稲荷社)の別当寺であった。

現在でも当寺には神社で祭祀されていた稲荷大明神本地佛「如意輪観音像」1体、同じく同体とされる「ダキニ天(稲荷明神)像仏画」1巻、飯成神社の「棟札」多数、雨乞・晴乞祈祷に用いたであろう神仏習合神の「雨宝童子像」1体が同じく保存されている。「飯成神社沿革史」


最盛期には、善吉寺・多宝寺・高野堂など上村から北村に十五の末寺を数え、さらに私坊三院を有したが、戦国時代に至りて、天正13年8月豊臣秀吉の四国征伐の際、大将小早川隆景の先鋒来島(村上)通総の侵攻に遭い、光蔵寺および龍門の山城が国主河野家の砦となり抗戦するも落城。伊予河野家の家伝記である「
予陽盛衰記 第十六巻第五章 越智郡諸城没落の事」には、越智郡鈍川郷鷹ヶ森山城主・越智駿河守通能が弟に対して、嫡子・門真太郎を高蔵寺に隠れさせているから連れて逃げろ、との行がある。

旧過去帳に
天正十三年八月兵火ニ遇ヒ伽藍堂塔焼失ス」と記述が残されている。(天正13年=1585年)8年後の文禄2年(1593年)に法縁智尊大徳が由緒旧跡の荒廃を嘆き、武田真三郎・渡辺新左衛門を中心とした衆徒・村人と共に旧大門址である現地「湯の口」に再興。 現在の石垣はこの時のもので、焼失した旧伽藍は地名として残っている。

この再興に際し、慶長年間に鴨部郷光林寺瑞範師代にその結集寺院の一寺となっている。「古寺過去記」


400年以前を示す伽藍図
大日如来泥仏;文安二年(1445年)
年号と寄進仁和寺と僧名が刻銘
文禄二年智尊上人過去記
宝永五年俊儀上人書写
下:出土(遺物)の古瓦 文禄三年1594年銘 鰐口 護摩堂(旧本堂)の菊紋瓦

医王山光蔵寺〜
近代から現代〜
江戸期光蔵寺の住職は文禄2年(1593年)現地に当寺を再興した法印智尊師をはじめ39人を数え明治
・大正・昭和をあわせると46人もの先師がおり、その出生地は全国に及び様々である。

江戸期に今治藩の祈願所・大覚寺派真言宗の中本寺であった光林寺へも奈良原山で請雨の祈祷を行った

光範上人
や光厳上人・慈淵・宥翁等八名の住職が転住している(内光蔵寺への入山が1名)ことから強い結びつきがあったことが考えられる。(1光2光3作礼と大覚寺結集時代の言い伝えがある)
大正時代の高野山出版社による「真言宗各派寺院録」には光林寺「大覚寺中本寺」、光蔵寺と仙遊寺がそれに次ぐ「大覚寺 格二(小本寺格)直末寺」となっているように、明治以降、光蔵寺および仙遊寺の2ヵ寺が逸早く、光林寺結集を離れ大覚寺直末寺へと復興している。

光蔵寺付随の僧坊は現在8堂庵であるが、江戸期の過去帳では朝倉上村18堂と中村北庄屋の1堂を含む

19坊
が光蔵寺末寺であったことが過去帳の庵堂住職の記録からわかる。
たとえば、山越部落の阿弥陀堂は庵住さんの数が最も多く明和6年寂の浄心禅門に始まり明治42年寂の虚心禅門まで13名もの先師の尊霊が存在する。

また言い伝えではこの阿弥陀堂のご本尊は本導寺・禄端寺にあったものとも言われ、
河野家の閑室と伝えられている。「角川書店 地名辞典」

江戸期においては主に朝倉上村庄屋武田家・渡辺家、上ノ村庄屋武田家、上村里正職山本家、朝倉中村北庄屋渡辺家、玉川高野村庄屋武田家、今治藩侍医武田家(元上村庄屋)、藩御用達酒造商武田家、神官田窪家、各村越智家、芥川家、加藤家、宇佐美家、金光家、長沢村渡部家、旦之上武田家などの総菩提寺として今日に至る。

庄屋武田家念持佛聖観音菩薩像、武田家位牌群・武田家奉納脇差が保存されている。


光蔵寺檀家
で主だった記録の残っている方は、

江戸初期より朝倉上村は今治藩私領上村約1300石と天領(松山藩預り地)上之村約300石に分かれ、
頓田川の上流にあり水田の水引で争いが起こっていたことから、当時の庄屋
武田半三郎は頓田川の高野堂のあったところに堰を造り下々の水田へも水が行き渡るようにした。このことからその功績が称えられ今でもその堰は高野堂堰と呼ばれている。(高野堂の本尊は現在光蔵寺に祭祀されている)

天保年間江戸の徳川幕府は全国の孝行者(善行を行った者)を表彰した。その折伊予国からは数名の者が選ばれそのうち1名に「朝倉上村 田無百姓卯八」が選ばれた。その卯八さんは親にもご先祖さまにも非常に孝行だったらしく文政八年に光蔵寺のお堂を建てた時にも世話人として働いている。「今治藩史」

以上のように今治藩光蔵寺や上村に貢献のあった方の位牌が今でも光蔵寺の持仏堂に安置され、江戸期の朝倉上村の様子を垣間見ることができる。

また
護摩堂は、隆快阿闍梨が八代今治藩主松平定芝公 寺社奉行竹本弥四郎の認可を得て五穀豊穣および万民豊楽を祈願し、文政6年に竣工・文政8年に建立されたもので、堂内の彫刻には菊紋が入り、京都の仏具師による88枚の天井絵(裏に文政6年の墨書あり)は小堂ながら非常に手の込んだものを残している。

それから護摩堂は200年を経て現在に至っている。

その他、寺宝に平安時代および鎌倉時代の仏像、南北朝時代の大般若経、旧伽藍図、大覚寺門跡仏画、大門礎石、私坊高大寺金蔵院(金光院)の青面金剛像・大般若経二百巻(金蔵院寄贈)などが保存されている。

 
高野堂堰に功績を残す庄屋
武田半三郎氏
孝行者卯八さん
最下段左三番目
護摩堂の天井絵
(全部で八十八枚)
現在の光蔵寺本堂の内陣
先師・庄屋の御位牌





余談となるが、近年編纂された「朝倉村誌」では一部の伝説が大々的に取り上げられ、
光蔵寺もその縁起がいつの間にかその一端に関係せられている。

しかしながら、「朝倉村誌」編纂にあたり調査員や関係者が調査や聞き取りのため当寺を訪問されたことは
ただの一度も無く、知らぬ間に終了していたことは公的な資料として公平性を欠くものであること
また、内容も朝倉村全体の史実資料として事実を確認できるもののみを記載すべきであるにも関らず、
その内容の大半が一部に偏りがあること
そして編纂者の憶測といった内容に終始しており、歴史資料としては事実性・学術性を欠く内容を多量に含んでいることを深く残念に思う次第である。

ここに、「村誌」には光蔵寺に残る古文書・遺物・言い伝えにまつわるものの記述は一切無く、
○「朝倉村誌」に記載されているものと当寺に残っているものとは全く内容の異なるものであること
○「朝倉村誌」編纂にあたり当寺の文物・遺物は全く調査を受けていないこと

以上を、光蔵寺の縁起や資料および遺物、さらには檀家をはじめ関係者にも関ることなので
ここに公表させて頂ければと思う。



補完史料

〇光蔵寺過去記に残る縁起譚 

瑠璃院医王山光蔵寺略縁起

抑モ当山ハ元古寺山ニ有リ 華厳宗ニ属シ七堂高ク林間ニ聳ユル大伽藍ヲ有シ人皇三十三代推古天皇ノ御世伊予総領主小千益躬氏勅命ニ依り九州ノ各地ニ暴害セシ異国ノ大将鉄大人ト云ヘル者ヲ討チ取ル 其砌益躬氏敵の毒矢ニ射ラレ命旦夕ニ迫ル 其ノ頃朝倉郷ニ一人ノ薬草ヲ取ル旅僧来タリ 住人名ヲ問ヘバ俊覚日羅産地ヲ問ヘバ京都トノミ答フ 勝レテ醫術ノ達者也 俊覚小千氏ノ請ニ応ジ益躬氏ノ館ニ行キテ施療スルニ数日ヲ出デザルニ病平癒ス 依而益躬氏ノ俊覚ニ帰依スル事一方ナラズ 遂ニ俊覚ノ請ニ依リ報恩ノ為一寺ヲ建立シ本尊薬師如来ヲ安置シ俊覚日羅ヲ法主トナシ瑠璃院医王山高蔵寺ト称ス 後俊覚入寂セシニ依リ其ノ菩提ノ為壱堂宇ヲ建立シ地蔵菩薩ヲ安置ス 最初俊覚ノ地名ヲ京都ヨリ来タレル僧ナルヲ以テ京僧ト呼ブニ至レリ 爾来幾星霜越智河野氏ノ帰依厚ク寺門益々隆盛ニ向フニ至レリ 更ニ吉野朝建徳元年良成親王奈良原山ヘノ途路約壱ヶ年當山ニ御滞在アリ 国家ノ安泰ヲ祈リ観音堂壱宇ヲ建立セラレ聖観音菩薩ヲ安置セラレ又寺紋トシテ菊紋ヲ用ヒル事ヲ許ルサレシト伝フ 其後三重ノ宝塔聖霊堂 参籠堂 茶堂 仁王門 等ヲ建立ス 後人皇五拾参代淳和天皇ノ御宇天長九年三月僧空海ノ開宗セシ真言宗ニ属シ空海御入定後百年記念シ大師堂壱宇ヲ建立スト 斯クテ栄ヘニ栄ヘシ当山モ河野一族ノ援護廃レ行クト共ニ寺門ノ衰微モ又止ム無キニ至リ人皇第八拾八代後嵯峨天皇ノ御宇寛元三年七月鴨部郷光林寺瑞範師代同寺結衆寺院ノ一寺ト成ル斯クテ人皇第百六代正親町天皇ノ御宇天正十三年八月豊臣秀吉ノ下知ニ依リ小早川隆景数萬ノ大軍ヲ率ヒ朝倉郷龍門城ヲ攻ム 其際小早川ノ軍兵敵ノ寺ニ頼リテ再起スル事ヲ恐レ寺ニ火ヲ掛ケテ焼ク 誠ニ小早川氏ノ無知蒙昧ノ仕打憎ミテモ尚余リ有リ 本尊薬師如来 地蔵菩薩 聖観世音菩薩 大般若経二百巻其ノ他宝物数種ヲ漸クニシテ取リ出シタルノミニテ宛モ城閣ノ如キ近郷遠郡ニ誇リシ大伽藍モ遂ニ一片ノ煙ト化ス 嗟呼痛恨限リ無シ 斯クテ現住智尊僅カニ残留セル近郷ノ檀徒五百ニ呼ビ掛ケ字竹ノ下ニ移転再興ヲ志シ大檀那郷代官武田真三郎氏等ニ計リ文禄二年四月現地ニ境内坪数五百余坪ニ五間四面ノ本堂七間ニ拾五間半ノ客殿ヲ建立 漸クニシテ落成ヲ見ル 然リト雖モ昔時ノ當山ニ比シテ如何ニ微々タル事ゾ 願ハクハ後代ノ諸師宣敷ク当山繁栄ノ為ニ盡瘁セラレン事ゾ望者也 因ニ嘗テノ日小千河野一族ノ信仰ノ的タリシ当寺跡ハ大門 御門 京上 前古寺 奥古寺 寺屋敷 寺床 京僧等僅ニ地名トシテ後世ニ伝ヘン 嗟呼惜ミテモ猶涙ノ種ナル哉

 文禄二年三月十二日当山中興智尊誌ス

 宝永五年八月四日当山現住俊儀謹

要点

@光蔵寺は最初「古寺山(小寺山)」にあった

A当初華厳教学の道場であった

B推古天皇の時代に小千益躬が建立した

C薬生僧俊覚日羅が開基した

D天長九年三月真言宗に改宗した

E寛元三年七月大覚寺末寺となった

F建徳元年良成親王の伊予逗留を援けた

G天正十三年八月兵火により堂塔伽藍を焼失した

H文禄二年四月智尊大徳が当地に再興した

I再興当時檀徒は500棟あった

J高蔵寺の伽藍跡として、大門 御門 京上 前古寺 奥古寺 寺屋敷 寺床 京僧等の地名が残っている

Kこの縁起は江戸期に書写された





〇寺物以外の書物に記される高蔵寺と水ノ上

伊予河野家の家伝記類

@予陽盛衰記 第十六巻第五章 越智郡諸城没落の事

『かく新居・宇摩残らず落去して、残る所は越智郡なり。先ず竜岡幸門の城主正岡右近太夫を始め、与和木重茂の城主岡部十郎・高橋老曽の城主は村上監物なりしが、前年河野の命を違背し、改替せられ、頃栗山将監・桧垣四郎右衛門預り、石井明神山の城主重見孫七郎・鈍川鷹ノ森城主越智駿河守・同右衛門尉端城をば大西と云えり。これは来島持ちなりし故、村上の一族門間左衛門太夫持ちしなり。古谷鷹取山の城主正岡紀伊守入道は近来河野の命に違い、既に軍に及ぶ事度々なり。宮ノ崎・霊仙の城主中川常陸介、これ等の面々嫡流自立なき事を恨みて別議を立て、遂に催促に応ぜず。

今度高外木落城以後、隆景より和議の事を云い送られしかば、中川ばかりは承引して城を明け退き、新たに秀吉公へ出て奉公せしなり。その余は曽って諾せず、命を限りの返答しければ、力及ばず、それで、手分けして勢を差し向けらる。その内、岡部十郎はその場に至って城を開け去る。

残りの面々、本より蟷螂の竜車に向かうの事ながら、城を枕にして討ち死せんずるぞ。更に相手もなく死せんよりは、敵を引き受けて死なんずるものをと、寄せ来る敵を今や今やと相待って、思う程戦って城に火をつけ、或は腹を切り、或は乱軍の中に討ち死して、名を後世に残しけり。

鷹ノ森の城主駿河守既に自害せんとする時、舎弟右衛門尉を呼んで、「汝は何とぞ紛れて落ち行くべし。命を全うして時節を待つべし。如何なれば累代の河野この度にて絶え果つまじ。死なんとすることは安し。門間が嫡子太郎をも、未だ幼稚の者なれども、心は同じことなり。汝が為にも姪(おい)なるぞ。才覚して連れ遁るべし。」と云いけれ ば、右衛門尉腹を立て、「さて、この場に臨んで左様のことやあるべき。一族皆々潔く討ち死する中に一人生き残りて、僅の齢を生きんとて、今までなき恥をかけよとは仰せとも覚えず。後先を云う故に、無益の事を承って黄泉の迷いなり。」とて、鎧の高紐を解ければ、駿河守はたとにらんで、「汝は思いの外なる愚人かな。死んでばかり能ならば、我も死する身の共にせんとこそ云うべけれ。不便にして命を惜しめと云うに非ず。家のためを思う故なり。この大事の一事他人に頼むことならず。なおも道理を弁えずば、七生まで勘当ぞ。疾く疾く。」と云いければ、この上は是非に及ばず、今死する舎兄を見捨て、泣きく裏門より咀道を伝いて或る溪合いまで落ち延び、従者を近付け、「門真太郎高蔵寺に隠れ居るべし。よく凍して連れ来たるべし。」と云い含め遣わしける。

程なく抱き来たりければ、それより道を急ぎ、与和木村重茂の城を志しが、これも早敵寄せ来たる沙汰ありければ、山伝いに越えて、野間郡嵯峨山寺に着きにける。この所にて府中落去まで忍び居ける。 太郎をば住持に預けて「時節よくば迎いに遣わすべし。年経て待つ期もなくば出家にし給え。」と云いて、その身は新居の越智信濃守の子族残って村里にある由聞こえければ、尋ね行きて自然と年月を経、時代押し移って農民となり、子孫今に周布郡にある由なり。』

意訳

「越智駿河守が鷹ヶ森城にて敵を引き受けて自害しようとした時、弟右衛門尉を呼んで、「お前はどこかへ紛れて逃げろ。命を全うして時を待て。このような状況では、何代にもわたり続いてきた河野の家もついに絶え果てるかもしれぬ。死ぬことは簡単だ。門間の後継ぎ太郎はまだ幼子ではあるが想いは同じだろう。お前からしても甥である。そう諭して連れて逃げよ」と言う。それを聴いた右衛門尉が腹を立てて返すには、「さてさてこの場に臨んでそんなことはできない。一族皆々潔く討死にしようかという時に、なぜ自分だけが一人生き残って僅かながらに生き長らえたとして一体何の意味があろうか。このような私を辱めるような命令は聞くことはできません。後先のことを考えれば、尚更こんな意味のないことを承ってしまったとしたら、とてもあの世で成仏はできない」と切腹するために鎧の紐を解き外そうとした。すると、兄である駿河守がはたと弟を睨みつけ、「お前は思った以上の大馬鹿者だ。死ぬことだけに意味あるなら、一緒に死のうと言うに決まっている。お前を可哀そうに思って言うのではない。これは家の存続を願ってのことだ。この一大事は他の人間に頼むことはできない。これ以上、私の言うことがわからないのであれば、七回生まれ変わっても兄弟の縁を切るぞ。とにかく早くしろ」と言うので、これ以上は仕方がないと諦めて、今から死のうとする兄を捨て置き、泣きながら裏門より出て山道を伝ってある谷間まで落ち延び、そこで従者を呼んで、「今、門真太郎は高蔵寺に隠れさせている。このことをよく話してここまで連れてきてくれ」と話して使いに出した。しばらくして従者が太郎を抱いて連れてきたので、それより道を急ぎ與和木村の重茂城を目指したが、こちらにも早くも敵が押し寄せてきているという情報を得たので、さらに山伝いに超えて野間郡(大井村)の嵯峨山寺へと到着した。ここで、伊予府中(越智郡のこと)での戦闘が落ち着くまで隠れることにした。太郎を住職に預け、「取り巻く状況が良かったら時期を待って迎えをやります。もし、状況が良くならず何年待っても迎えが来ないようであれば、出家させて小僧にしてやって下さい」と伝えて、自分は新居郡(新居浜)に越智信濃守の子孫が農村に残っていることを耳にしたので、訪ねて行き、自然と年月が経ち、そのまま時代が変わって農民となり、その子孫は周布郡にあると言われている。」






A「水里溯録」の「河野三島大明神来由并河野名字根元事」に記される水ノ上と小千(越智氏)の逸話

「予州風早郡河野ノ郷河野三島神宮ハ大三島同体ニシテ、面足尊・惶樫根尊也。 往昔高縄高嶺深山神仙相応ノ地ニシテ、三島三所十六皇子彼峰二来遊シ給フ。山頂来現影向ノ石、尽三?ノ文アリ。茲二人皇三十四代推古天皇七年庚申、伊与大領小千益躬、当山ノ神異妙境ナルヲ信シテ新二神壇ヲ彼山ニ設、大明神ヲ鎮祭ラル。而後々孫散位伊太夫玉県ト云人、人王四十二代文武天皇大化五年、役氏優婆塞、葛城山二久米ノ岩橋ヲ懸ントテ、諸神ヲ寄セテ一夜ノ内二可渡ト約セラレケルニ、未渡シ得スシテ夜明ケレハ行者大二怒リ給フ。サレハ或歌二、

岩橋ノ夜ノ契リモ絶ヌへシ明ルワヒシキ葛城ノ神ト詠ルモ此事也。爰ニ諸神腹立シテ行者ヲ讒奏被申ケレハ、帝甚逆鱗アリテ行者ヲ流刑二被処ケル。此時玉興モ在京ナリシカハ、行者ニ罪ナキ由ヲ陳シ被申、結句同罪二被行ケル。去程ニ、玉興モ行者モ同道ニテ摂州二下リ、難波ノ辺二牢浪シ給フ。昔ハ皇命最厳重ニシテ、勅勘ノ人ナトニハ船借人モ莫リケリ。此時、本国遙遠敬心正二疎ヲ歎テ、社壇ヲ彼地二建立セラレ、明暮勅免帰国ノ御祈ナシ。夫ヨリ此所ヲ三島江ト云。行者何国へ渡給へキヤト問給ケレハ、我ハ伊与ノ三島へ便船ヲ可尋ト宣へハ、伊与ノ三島ハ賀茂領也、行者ハ賀茂再誕也、其義ナル故也、サレハ此御世迄モ摂州中島ハ莫テ此辺海岸ナリケレハ、常二唐船ナトモ着ヌ、故二唐崎ト云。雰ニ又唐船三艘見タリ。王興便船ヲを給へハ、其国二入テハ其国政二可、随ナレハ如何トテ、勅勘ノ人へハ便船難申トテ不借ケル。今一艘二御詫事アリケレハ、御頼アルヲ無甲斐,,申放ヤトテ、則領掌シ、纜ヲ解テ漫々タル西海ニ漕出シ玉フ。津々浦々ニモ勅命ヲ恐レテ船ヲ寄ス。船中水ニ渇シテ苦ム間、備中ノ国沖ニテ、玉興渇二絶エス、自ラ三島大明神ヲ祈誓シ、弓舞ヲ以テ海潮ヲ探リテ、此内二水可有、呑テ見ヨト宣ヒケレハ、船主汲取リ各呑ケレハ類ヒナキ清水ナリ。爰二各渇ヲ助カリ蘇生ノ心地致シケル。玉興船主二宣ヒケルハ、只今難義至極二及シ、生死存亡 ノ境ニ至リシヲ、神助ヲ得テ救(ハレ)シ事希代ノ不思議也、サテ亦船主ハ何レノ国ノ人ソト問給ヒケレハ、答テ云。我ハ唐土越国ノ者也。我母ハ遊女ナリシカ、一年日本ヨリ蒙古退治ノ為二御度リアル大将伊与大領守興ト申人、我母ヲ御妻愛アリテ、無程懐妊致シタリ。守興御敵ヲ退治シ御凱陣アリ、母ハ彼国ニテ二人ノ男子ヲ儲候也。日頃日本ヲ恋忍トモ、甲斐ナク年月ヲ送リシ也。此頃母サへ逝去スル間、孤子ト成テ越ノ居住モ懶ク存シ、兄弟思立此国へ漕渡ケレトモ、不知案内 ナレハ、可,尋寄 方モ無徒二月日ヲ送ル処二、便船御頼ニ依テ如、此也。今一艘ノ辞退セシハ我兄也。父ノ御前二モ奉逢ハヤト共ニ伴ヒ渡リタリ。今ハ我ヲ待タルヘキト跡ヲ見反リテ涙ヲ流タリ。玉興情是ヲ聞給ヒ、サテハ我弟也、何カ験物可」有ト宣へハ、御重代ノ御剣亦御手跡ナトモ残シ置レタリトテ取出、御目二懸ケレハ、誠二疑モナキ事也。宿縁潤熟シテカ、ル 不思議二逢事襄祖ノ御引合也、殊更我モ相続ノ男子ナシ、所詮一跡ヲ可譲トテ御契約サレケル。又姓ヲハ小千ト云トモ先祖ノ御諱也、又憚ナキニアラサレハ越知ノ字二改ムへシ、越ノ人父国知ル故也。又名字ナクテモ不叶事ナレハ、只々探り得ツル水ハ、与州高縄山ヨリ流出タル水ノ末也。彼高縄山ハ観音薩?霊験ノ地也。当初十六王子彼地二来遊シ給フ、去レハ高縄山ト云。又天神山トモ申ス。三島大明神山トモ 申ス。三島大明神、十六王子霊跡在シ、新宮ト号。霊廟下ヨリ 流来レル水、我奇瑞アリトテ是ヲ知レリ。向後此水ノ上二可住サレハ予里ノ可水ヲ二文字トシ、河野ト改申へシトテ、則是ヲ氏トセラレケル。夫ヨリ高縄山ノ麓、彼川筋ヲ河野ト称シ、新宮ヲモ河野三島大明神ト申奉ル。彼一族代々此地二可住ト定ラル。妙ナル哉、今猶備中ノ沖中彼神水常二湧出スト云。夫ヨリ此海ヲ水島ノ渡ト申ス也。玉興ノ弟則当家ヲ相続アリテ、是ヲ宇麻ノ大領玉澄トソ申ケル。則子高縄ノ麓河野ニ御館アリ。当社ヲハ別テ尊信シ、氏ノ祖神トシテ一族門葉尽渇仰セラレケル。猶委クハ予章記ニ出タリ。」


〇逸話「水島の渡し」にみる高蔵寺と大山祇神社(同経度)および楢原山と高蔵寺と水島(鬼門・裏鬼門)の位置関係

☆解説

越智氏の氏神・小千命(おちのみこと)が祀られている大三島町の大山祇神社の神様の名は「大山積神」であるが、古来「三島明神」や「水上神(みなかみのかみ)」とか「大水上神」「和多志神」などとも呼ばれていたことは、この玉興と玉澄の説話にある通り、湧出する清められた水およびその水源を崇めたことに由来する。驚くことに、高蔵寺の旧伽藍の位置は、大三島の大山祇神社から真っ直ぐ南に経線を引っ張った位置にあり、同じ経度である。さらに、その途中には星峰として別宮大山祇神社を経由している。

さらに高蔵寺のある上朝倉から山を通じて隣接する玉川町鈍川には、小千玉興が大和国葛城山より役小角を迎えて開いたという2つの神社があり、水ノ上には小千玉澄が京都の伏見稲荷より勧請したと伝わる飯成神社があり、これも予章記や水里玄義の話と呼応している。さらに不思議なのは、この楢原山・奈良原神社と水ノ上・高蔵寺を直線で結んで引っ張ると、その東北方向へと延びるその線の先は、燧灘の海上を越えて備中・児島の沖合にある水島へとつながっていることである。そう考えると、高蔵寺は伊予国府が頓田川の流域にあったと仮定して、その南東方向=裏鬼門の位置にあり、災難除けの寺院として建立されたとも言える。小千氏が高縄山に勧請したとされる三島明神は十六童子を従えている。高縄山は独立峰であり、楢原山(高縄山より高い)もその一部で独立峰である。古代の小千氏は、高縄半島を如意宝珠、加茂神領であった越智七島(生奈島、岩城島、大三島、大下島、岡村島、御手洗島、豊島)を北斗七星になぞらえていたのではないかと思われ、そう考えると、如意宝珠の中央部とその上に輝く北斗七星の中央に三島明神が祀られていることが見えてくる。高縄山の十六王子はその中央・山間部より流れ出でる河川のことであり、三島明神=高縄山系を中心として四方八方=放射線状に向かって十六方面に流れる複数の河川を示したものと言えようか。

そう考えると、現在の河野家発祥の地とされる松山市北条の河野郷の河川は山口県や九州方面に向かっており、岡山県の水島とは反対を向いている。小千玉興と玉澄が運命的に出会った「水島の渡し」に湧いていた「清水=伏流水の源流=水ノ上」は直線で結ぶことができる朝倉上の水ノ上および浅地・白地の河野さらには高縄山系の内の楢原山の方が相応しいように思えてならない。また、この十六童子の第一王子の本地は薬師如来とされる。光蔵寺の裏山の京僧と呼ばれる古道を抜けて高大寺部落に入ったところ辺りは古来より「童子ヶ原」という字で呼ばれている。すぐ近くには高大寺川と薬師堂があり、その隣の谷には西蔵寺川と薬師堂、光蔵寺も古寺川(小寺川)があり薬師如来を本尊としている。玉興自身は三島明神が安心の境地にある大三島の安神山・神野山へ、玉澄は十六童子(十六王子とも言う)を従え活動する三島明神が住む高縄山系の水源に第一王子を祀り、そこに住んだと受け取ることもできようか。また、光蔵寺が別当職にあった水ノ上部落の稲荷神社(飯成神社)は小千玉澄が開いたという由緒になっていること、そして江戸時代初期の今治藩の引継書の中には、光蔵寺の両所薬師堂と共に並んで、鎮守社として三島明神と熊野若一王子(天照大神と同体)の名が記されていることも付け加えておく。「河野の一族越智駿河守通能とその弟・右衛門尉の逸話」が、河野家滅亡直前の一つ前の章に描かれていることは決して偶然ではなく、この越智家が風早郡に発祥した河野家の本当の祖先として、その母屋に繋がる一族であったが故の采配ではなかったろうか。そのような意味で、史書や伝説に記されている、皆が忘れてしまうほど古くからの小千氏や河野氏の発祥の地のひとつに建つ寺院としての水ノ上・高蔵寺の姿が見えてくるのである。河野(こうの)と呼ばれる地がある朝倉・浅地にあり、光蔵寺の檀越でもある屋号・下窪の越智家には、平安時代末期〜南北朝時代にかけての数多くの軍忠状(戦争の報告書)が遺されている。


〇1次史料「江戸時代初期(1600年代)の今治藩と松山藩の引継帳」に記される朝倉上村と光蔵寺

・予州今治領御政事定法鑑 

寛永十二年九月従大公儀

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