光蔵寺の什物を適時入れ替えながら少しずつご紹介いたします。
「聖観世音菩薩立像」
光蔵寺本尊薬師如来と共に古仏である。
本像は左手を胸前に置いて蓮華を持ち、右手はそれに添えるようにして蓮台の上に立つ聖観世音菩薩で、檜材の寄木造り、玉眼素木の像である。腰には複雑に折りたたまれた裳をまとい、上半身には条帛と天衣が着けられている。
頭部の髻を丁寧に結い上げることや腰の辺りで複雑に折りたたむ衣裳の形状など、宋時代の様式を踏襲した像である。
制作年代は、端正にして、やや厳しく表現された面相部、的確で写実的な衣裳の形状などから鎌倉時代の優秀な彫像である。
「如意輪観世音菩薩像」
光蔵寺は、中古より当部落水ノ上飯成神社(江戸期の名称は稲荷神社)の別当として任に当たっており、氏神である稲荷明神は如意輪観音の化現であるとされていたことから神社に本地仏として祭祀されていた仏像である。事実、明治以前までは如意輪観音は天皇の守護本尊であり天照大神の本地仏とされていた尊であり、稲荷明神の垂迹とされた荼枳尼天(辰孤)が如意輪観音の化現であるとされていた。
明治維新の神仏分離令によって飯成神社の別当寺であった光蔵寺に祭祀されることになった。本像は小型の坐像である。左右六本の腕を持ち、平安時代以降はこの六臂像が多く本像もこれに類する。江戸時代初期の彫像とみられる。台座には幾重にも重ねられた細かい彫刻がなされている。
また、本像を安置する厨子が他の仏像の厨子と違い、神社型の社の屋根を付属し、木材は赤味を帯びた色状をしていることは神仏習合時代の特徴を示し非常に興味深い。
「荼枳尼天図(稲荷明神図)と神社棟札群」
同じく飯成神社関係のものである。
本図は稲荷明神の垂迹にして「狐」の畜身を分身とする荼枳尼天の図像である。本地垂迹説話の一大集成として知られる「神道集」は稲荷明神の垂迹である「陀枳尼明王」を「濁悪の教主」と呼んでいる。女神の荼枳尼天を乗せて空を飛ぶ狐を日本では辰孤・辰孤王菩薩などと呼んで信仰してきた。この辰孤王は一面四臂でそれぞれ利剣・稲束・鎌・如意宝珠を携えている。これは「仏説辰孤大王大菩薩一字秘密速疾成就式経」という経典を基としており中世に隆盛した佛舎利信仰の変節した形と言えよう。中世においては荼枳尼天は天皇の即位儀礼において本尊として信仰されてきた歴史を持つ。また、「渓嵐拾葉集」には辰孤は如意輪観音の化現であるとされる。
この仏画も以上の特徴を持つものであり、農事における風雨順次・五穀豊穣などの祈願を捧げていたものと思われる。
裏面には明治に再表装したとの記述と世話人の人名の墨書があり、その作風から光蔵寺の八祖大師図や四社明神図などと対をなすものであろう。
また、飯成神社の祈祷札や三十六歌仙絵馬奉納式の執行札など、神社にまつわる棟札が多数保存されていることも興味深い。
「不動明王三尊図」
非常にはっきりとした図柄で中央の不動明王は坐像、左右には矜羯羅童子と制多迦童子が補佐している。不動尊は平安初期に日本に入ってきて以来、熱心な信仰を受け、真言においては息災護摩の本尊として修法されることから、光蔵寺において護摩供の際に祀られていたものであろう。
その作風・紙本肉筆であることから江戸時代の図であるとみられる。
「肉筆 大般若経二百巻」
南北朝時代のもので、すべて手書きにて書写されたものであり、残り四百巻は玉川龍岡寺に現存している。南朝長慶天皇、文中二年・1373年(吉野朝)のものを最古として元中二年までに写経されたものであり南朝の年号を用いている事から嵯峨御所大覚寺統の地域であったことを物語っている。
富士山の噴火に伴う大地震の事を2箇所記してあるなど文献としても興味深い。
初巻には再興永正三年 願主越智元安の銘が残る。
昭和十五年に旧東京帝国大学 平泉澄文学博士が当寺を訪れ調査。以下の歌を残されている。
「御吉野の 御門尊ぶ筆の跡 詣でてうれし 伊予の山寺」
「護摩堂 天井絵」
江戸期の天井画である。全部で88枚に88種の花の絵が描かれており、内一枚に文政六年の銘と今治藩主の名、その他、護摩堂建立に関わった人々の人物名が墨書されている。
護摩堂の天井裏の梁には文政七年、棟札に文政八年の年号が墨書されていることからお堂の建立と共に作成されたものであろう。江戸期の天井絵としては花の絵柄でこれだけの種類が描かれているものは珍しく貴重である。
当時の京都で描かれたものと言い伝わっている。