医王山光蔵寺〜略縁起〜
光蔵寺は朝倉の高き峰にあることから「高蔵寺 たかくらのてら」または「金蔵寺 かなくらのてら」と号し、現在の寺の前を流れる古寺川上流の古寺山(小寺山)に存し、林内に点在する堂は七堂伽藍であったと過去記に記す。

事実、現在も光蔵寺の麓から古寺山に向かって「大門・御門(後門)・水上院・京上・前古寺・奥古寺・
寺屋敷・寺床・京僧・喪入道」などの地名が残されていることから、天正十三年に四国征伐で焼討ちされる
中世以前の高蔵寺が山城的な性格を持つ山岳寺院として、現在とだいぶ趣を異にしていたことが伺われる。

寺伝に記す縁起は、豊御食炊屋姫(推古十年 602年)の御世、旅の薬生僧俊覚日羅上人が伊予国の
大領
小千益躬を施療し平癒したことへの報恩により、本尊薬師如来像(秀圓上人の光蔵寺什物目録では行基菩薩作と言いつたふとある)を当地水之上(みずのかみ)に安置し、領内に飢饉や旱魃・洪水のないよう領民の五穀豊穣・領内安泰を祈願、自らも延命地蔵王菩薩像を彫って小千氏の氏寺「高蔵寺」を建立したのが医王山光蔵寺の開基である。

また民俗学的に見ると、古寺川は国府の田畑を潤す頓田川の上流であり、さらにその奥の古寺山の
山中にある磐座(いわくら)が古来より山ノ神としてお祀りされていたことから、古寺山自体を
必要な水と豊かな土壌を与えてくれる山ノ神あるいは水ノ神とし、雨乞いおよび五穀豊穣を祈る
神聖な霊地として崇めていたことが考えられる。また、水源の近くには古くから銅鉱石を産出する
金山(かなやま)が存在し、その関係もあろうと思われる。

光蔵寺がその起源を朝倉水之上古寺山とすることは、古代の水源信仰と山岳信仰が結びついた結果、
のちに真言寺院として発展していった為であろう。

江戸期まで光蔵寺が水之上の氏神である飯成神社の別当寺を勤めていたことも決してそれと偶然ではない。

光 蔵 寺    年 代 表
年 代 主 な 出 来 事
602年
(推古十年)
小千益躬公、現在の水之上古寺山に氏寺「高蔵寺(金蔵寺)」を創建する。
奈良期 伊予国分寺建立により華厳経学の道場となる。
824年
(弘仁十五年)
水之上氏神稲荷(飯成)神社の別当寺となる。
1245年
(寛元三年七月)
京都嵯峨御所大覚寺より僧侶が赴任する大覚寺直末寺となる。上村から中村に末寺十五ヵ寺と私院三坊を有す。
南北朝期 吉野より下向した大覚寺統の吉野朝良成親王の伊予逗留を援け「菊紋」を下賜されると伝う。南朝文中二年の肉筆の大般若経二百巻を蔵す。
1585年
(天正十三年)
豊臣秀吉の四国征伐に遭遇し、河野勢の砦となり兵火によって伽藍堂塔焼失する。その伽藍址は現在も地名として残る。
1593年
(文禄二年)
智尊大徳、由緒旧跡を偲び村人と旧大門のあった現地湯の口へ石垣と堂宇を再興。慶長年間に畑寺光林寺一派となる。
江戸期 主に朝倉上村、上ノ村庄屋武田家・上村庄屋山本家、中村北庄屋渡辺家、玉川高野村庄屋武田家、玉川鬼原村庄屋武田家、今治藩侍医武田家、町谷村藩御用達酒造商武田家、神官田窪家、芥川家、越智家、加藤家、宇佐美家、岡家、金光家、青野家、白石家などの菩提寺として今日に至る。文政6年に本堂建替。庄屋武田家聖観音菩薩像及び位牌群を預かる。
明治期 太政官令・神仏分離令により水之上稲荷神社(現飯成神社)と分離される。
分離により本地佛如意輪観音像・ダキニ天仏画および神社棟札は光蔵寺に祭祀。光林寺より分離し大覚寺直末寺・二等格小本寺となる。
大正〜昭和初期 大日本帝国の戦時政策により高野山を本山とし、その直末寺となる。
医王山光蔵寺
瑠璃院過去記
俊覚上人から慶長1600年代
までの当山の先師系図 
多くの地蔵尊が祀られる境内
享和年間の延命地蔵
光蔵寺瓦版お参り案内花だより年中行事月行事お寺の歴史寺宝
ひとくちエッセイ護摩祈願ご供養周辺紹介交通地図 | リンクあとがき
中世における光蔵寺の変遷
以上が光蔵寺創建までの寺伝であるが、中世以降の記録によると以下のとおりである。

奈良朝には、国分寺の影響を受け華厳経学の道場に、中世においては、寛元三年(1245年)七月に大覚寺統直轄の直末寺(京都大覚寺より僧が赴任)となり七堂の伽藍を備えた。南北朝時代には吉野より下向した南朝良成親王の伊予逗留を援け「菊紋」を下賜されている。

これは当寺が南北朝の争乱期に保護を受けていた伊予の豪族
河野氏が南朝(吉野朝)についていたこと、および、嵯峨御所大覚寺の直末寺であった為であろう。また、この頃の南朝の年号である文中二年(1373年)の奥書を最古とする肉筆の大般若経200巻が保存されている。智尊記「覚書光蔵寺菊紋之事」

このことから、古瓦のかけら・文政年間(1,818年)から建つ護摩堂の彫り物・鎧瓦・御袈裟には菊紋が寺紋として残されている。また菊紋と同時に下がり藤の紋を使用しており、これは現在の伏見稲荷(水之上飯成神社)が明治以前は「藤森稲荷」と通称されていたこと、水神宮の住人
藤原実正(越智実正)がこの紋を用いていたことと関係があると思われる。


また光蔵寺は、明治に神仏分離令は発布されるまで中古より、水の上の氏神である「飯成神社」(弘仁15年=825年に国司小千宿祢為澄(おちのすくねためすみ)が嵯峨天皇の詔勅を奉じて山城国稲荷山から勧請した一社であり朝倉上村の稲荷社)の別当寺であった。

現在でも当寺には神社で祭祀されていた稲荷大明神本地佛「如意輪観音像」1体、同じく同体とされる「ダキニ天(稲荷明神)像仏画」1巻、飯成神社の「棟札」多数、雨乞・晴乞祈祷に用いたであろう神仏習合神の「雨宝童子像」1体が同じく保存されている。「飯成神社沿革史」


最盛期には、善吉寺・多宝寺・高野堂など上村から北村に十五の末寺を数え、さらに私坊三院を有したが、戦国時代に至りて、天正13年8月豊臣秀吉の四国征伐の際、大将小早川隆景の先鋒来島(村上)通総の侵攻に遭い、光蔵寺および龍門の山城が国主河野家の砦となり抗戦するも落城。

旧過去帳に
天正十三年八月兵火ニ遇ヒ伽藍堂塔焼失ス」と記述が残されている。(天正13年=1585年)8年後の文禄2年(1593年)に法縁智尊大徳が由緒旧跡の荒廃を嘆き、衆徒・村人と共に旧大門址である現地「湯の口」に再興。 現在の石垣はこの時のもので、焼失した旧伽藍は地名として残っている。

この再興に際し、慶長年間に鴨部郷光林寺瑞範師代にその結集寺院の一寺となっている。
                                 「古寺過去記」


400年以前を示す伽藍図
大日如来泥仏;文安二年(1445年)
年号と寄進仁和寺と僧名が刻銘
文禄二年智尊上人過去記
宝永五年俊儀上人書写
下:出土(遺物)の古瓦 文禄三年1594年銘 鰐口 護摩堂(旧本堂)の菊紋瓦

医王山光蔵寺〜
近代から現代〜


江戸期光蔵寺の住職は文禄2年(1593年)現地に当寺を再興した法印智尊師をはじめ39人を数え明治
・大正・昭和をあわせると46人もの先師がおり、その出生地は全国に及び様々である。

江戸期に今治藩の祈願所・大覚寺派真言宗の中本寺であった光林寺へも奈良原山で請雨の祈祷を行った

光範上人
や光厳上人・慈淵・宥翁等八名の住職が転住している(内光蔵寺への入山が1名)ことから強い結びつきがあったことが考えられる。(1光2光3作礼と大覚寺結集時代の言い伝えがある)
大正時代の高野山出版社による「真言宗各派寺院録」には光林寺「大覚寺中本寺」、光蔵寺と仙遊寺がそれに次ぐ「大覚寺 格二(小本寺格)直末寺」となっているように、明治以降、光蔵寺および仙遊寺の2ヵ寺が逸早く、光林寺結集を離れ大覚寺直末寺へと復興している。

光蔵寺付随の僧坊は現在8堂庵であるが、江戸期の過去帳では朝倉上村18堂と中村北庄屋の1堂を含む

19坊
が光蔵寺末寺であったことが過去帳の庵堂住職の記録からわかる。
たとえば、山越部落の阿弥陀堂は庵住さんの数が最も多く明和6年寂の浄心禅門に始まり明治42年寂の虚心禅門まで13名もの先師の尊霊が存在する。

また言い伝えではこの阿弥陀堂のご本尊は本導寺・禄端寺にあったものとも言われ、
河野家の閑室と伝えられている。「角川書店 地名辞典」

江戸期においては主に朝倉上ノ村庄屋武田家・上村庄屋山本家、北村庄屋渡辺家、玉川高野村庄屋武田家、
今治藩侍医武田家(元上村庄屋)、藩御用達酒造商武田家、神官田窪家、各村越智家、芥川家、加藤家、
宇佐美家、金光家、長沢村渡部家、壇之上武田家などの総菩提寺として今日に至る。

庄屋武田家念持佛聖観音菩薩像、武田家位牌群・武田家奉納脇差が保存されている。


光蔵寺檀家
で主だった記録の残っている方は、

江戸初期より朝倉上村は今治藩私領上村約1300石と天領(松山藩預り地)上之村約300石に分かれ、
頓田川の上流にあり水田の水引で争いが起こっていたことから、当時の庄屋
武田半三郎は頓田川の高野堂のあったところに堰を造り下々の水田へも水が行き渡るようにした。このことからその功績が称えられ今でもその堰は高野堂堰と呼ばれている。(高野堂の本尊は現在光蔵寺に祭祀されている)

天保年間江戸の徳川幕府は全国の孝行者(善行を行った者)を表彰した。その折伊予国からは数名の者が選ばれそのうち1名に「朝倉上村 田無百姓卯八」が選ばれた。その卯八さんは親にもご先祖さまにも非常に孝行だったらしく文政八年に光蔵寺のお堂を建てた時にも世話人として働いている。「今治藩史」

以上のように今治藩光蔵寺や上村に貢献のあった方の位牌が今でも光蔵寺の持仏堂に安置され、江戸期の朝倉上村の様子を垣間見ることができる。

また
護摩堂は、隆快阿闍梨が八代今治藩主松平定芝公 寺社奉行竹本弥四郎の認可を得て五穀豊穣および万民豊楽を祈願し、文政6年に竣工・文政8年に建立されたもので、堂内の彫刻には菊紋が入り、京都の仏具師による88枚の天井絵(裏に文政6年の墨書あり)は小堂ながら非常に手の込んだものを残している。

それから護摩堂は200年を経て現在に至っている。

その他、寺宝に平安時代および鎌倉時代の仏像、南北朝時代の大般若経、旧伽藍図、大覚寺門跡仏画、大門礎石、私坊高大寺金蔵院(金光院)の青面金剛像・大般若経二百巻(金蔵院寄贈)などが保存されている。

 
高野堂堰に功績を残す庄屋
武田半三郎氏
孝行者卯八さん
最下段左三番目
護摩堂の天井絵
(全部で八十八枚)
現在の光蔵寺本堂の内陣
先師・庄屋の御位牌





余談となるが、近年編纂された「朝倉村誌」では一部の伝説が大々的に取り上げられ、
光蔵寺もその縁起がいつの間にかその一端に関係せられている。

しかしながら、「朝倉村誌」編纂にあたり調査員や関係者が調査や聞き取りのため当寺を訪問されたことは
ただの一度も無く、知らぬ間に終了していたことは公的な資料として公平性を欠くものであること

また、内容も朝倉村全体の史実資料として事実を確認できるもののみを記載すべきであるにも関らず、
その内容の大半が一部に偏りがあること

そして編纂者の憶測といった内容に終始しており、
歴史資料としては事実性・学術性を欠く内容を多量に含んでいることを深く残念に思う次第である。

ここに、「村誌」には光蔵寺に残る古文書・遺物・言い伝えにまつわるものの記述は一切無く、

○「朝倉村誌」に記載されているものと当寺に残っているものとは全く内容の異なるものであること

○「朝倉村誌」編纂にあたり当寺の文物・遺物は全く調査を受けていないこと

以上を、光蔵寺の縁起や資料および遺物、さらには檀家をはじめ関係者にも関ることなので
ここに公表させて頂ければと思う。


                    △トップページ