医王山光蔵寺のある緑の里 朝倉についてご紹介いたします。

 朝倉の里とは?

朝倉村は四国は愛媛県越智郡にあります。地勢的には愛媛の北部、高縄半島・道前平野に位置し、自治体としては今治市に隣接する瀬戸内「しまなみ街道」のある人口約4500人の盆地の村です。

あさくらとしての歴史は古くシンボルの笠松山(上の写真)をはじめ龍門山などの山々の麓には数多くの古墳や古代の遺跡が出土し、慶長九年(1604年)に戦国武将藤堂高虎が今治城を開城し大規模な町割を行うまでは伊予国府は現在の伊予国分寺や国府城跡のある現今治市桜井にあったことから平地続きで隣接するあさくらは朝廷や伊予国府の重要な穀倉地帯また住居地帯であったことが、古墳や遺跡から出土する古銅鏡(現在東京国立博物館蔵)や木簡(朝廷に収める税についての)や土器や銅剣・和銅開弥等の古銭や本導寺(風土記にある国分寺より前にあったといわれる寺院)の古瓦などからも推測することができます。

越智郡の越智は旧称小市で日本霊異紀に出てくる白村江の戦いで活躍する小千値(おちのあたひ)など代々の伊予国の国造を司ってきた越智氏であり鎌倉時代には元寇で活躍する伊予河野家を排出し、戦国期には毛利氏や豊臣家に組した村上水軍こと三島村上氏へと繋がる家柄の名であります。
また中世には南北朝の争乱の舞台ともなり、笠松山付近では南朝方の脇屋義助(新田義貞の弟)が征西将軍として大館氏明等と、北朝足利尊氏方の大将細川頼春の大軍と合戦をおこなった場所でもあり、戦国末期には土佐の長宗我部元親や安芸の小早川隆景による伊予侵攻を受けた歴史があります。
近世においては、今治城を開城した藤堂高虎20万石続いて高吉2万石を経て寛永十二年朝倉の地は徳川家康公の異父弟にあたる松平定房(久松家)今治藩3,5万石と天領(幕府領・松山藩久松家預かり地)とに分治され明治期に至ります。

古に砦城があったとされる龍門山の雪景色
標高456メートル(光蔵寺境内より)
土産物屋やレストランを併設する
朝倉タオル美術館
朝倉のシンボル笠松山
トレッキングコースもあり
ハイキングに最適 標高358メートル
朝倉の水甕 朝倉ダム 
周辺には散歩道や公園が整備されている
藤堂高虎築城日本で珍しい海水を引いた
海城今治城
しまなみ街道・来島海峡が見渡せる
糸山公園
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